喫茶店やレストランで、小さな音でモーツアルトがBGMとしてながされているのは悪くないものです。
ショパンには、激したもの、大仰なものがあり、ショパンなら何でもBAMになるわけではありませんが、モーツアルトは、ボリュームさえ押さえておけば、重要な会議の場でも、お見合いでも、はたまた、囲碁大会の決勝戦でも利用可能でしょう。高校野球の決勝戦に、小さな音でずーっとモーツアルトが流れていても、何の問題もないでしょう。
そういうことを思ったのは、一晩中、ちいさな音でモーツアルトのピアノコンチェルトを流し続けたら実に快眠できたのがその理由です。
便秘の時には、ショパンのお奨めの薬にしますが、ショパンは、ときどき、聴衆の心につかみかかる瞬間があって、ボーっと聞かせてくれないというのが、BGMとしては欠点です。
あくまでも、BGMとしての音楽論ですので、そこのところで御寛容にお願いします。
http://www.youtube.com/watch?v=GAgFfaMu10A
ここに載せたのは、今私が一番好きな雨だれ(辻井伸行)。
このくらいの曲は、ちょっとお稽古すれば誰だって引けます。
でも、こんな簡単な曲を、いいなぁ・・・・・と思わせるのは、達人の芸です。
辻井君はすでに、若くして達人の域に達していると思います。
但し、ピアニストとしては、目が見えないというハンディはとてつもなく大きいので、こういう曲を通じて、達人技を聞かせ続けていただきたいな、と思います。
今日、私が論じたいのはペンデレツキ―。
美しいと思うんです。でも、どこで流せばいいの? ということです。
http://www.youtube.com/watch?v=5IaUEHqa9cU&feature=related音楽は、それ自体で作品として成り立つべきものと思いますが、演奏する場が必要であることも事実です。
わたしは、ペンデレツキ―とシェーンベルクがことのほか好きで、このブログでも何度かそのことは書いたと思いますが、こんなのを葬式で流すように遺言を書いたとしても聡明な私の息子は、楽々そんなものは無視すると思います。
別の方向から、私が何を言いたいのかを傍証してみます。
岡本太郎画伯の作品が渋谷、井の頭線の出口に飾られています(写真)が、私はこれを、不適切だと考えています。
芸術的な価値云々ではなく、朝、澁谷で降りて、井の頭線で通勤通学する会社員や学生諸君に元気を与えるものではないということです。

毎朝、毎夕、この作品の前を通るうちに、鬱的になっていく人もあるのではなかろうかと考えた次第です。
一時期、この前を毎日通過していた娘が、とても嫌だった言っていたことが印象に残りました。
スペインのプラド美術館でピカソのゲルニカを見た時にも、ああ、嫌な絵だなあ。くれると言っても欲しくないな、でも、すごい絵だな、と思いました。
こういうのは、覚悟を決めて、美術館に見に行くからいいんです。
通りすがりの道すがらで、そんなのがあったら、嫌です。
素人が、半可通の芸術論を述べまして申し訳ありませんが、素人は芸術の価値よりも、そこのばに適合しているかどうか、の方を重要視しているということをもうしあげたくて、この小文をとりまとめました。